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「眼前/集積」錦戸俊康写真展

「眼前/集積」錦戸俊康写真展
2021年2月17日〜2月24日

「眼の前の出来事を少しの期待と触発にまかせて写真に撮っている。
何度も直面し結果が見えてしまう場面でも、この一枚によって何かが変わるのかもしれないと思い動いてします。
自分のためだけに撮ったはずの写真は何を言ってくれるでもなく、ただただ集積していく。」(「眼前/集積」より)

※錦戸俊康さんのnote
写真展「眼前/集積」を終えて

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「海外線」錦戸俊康写真展

「海岸線」錦戸俊康写真展
2021年1月20日〜1月27日

「対岸に見える半島や小さな島々、観光写真を見ただけで知ったつもりになっていた対岸のその先。あまりにも当然のことであり、視線や興味の中から消失していた光景がみるみる存在感を増し、この領域にも私が探す点滅があることを知った。」(「海外線」より)

※錦戸俊康さんのnote
写真展「海外線」を終えて

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「隣人愛」錦戸俊康写真展

「隣人愛」錦戸俊康写真展
2020年12月23日~12月30日

「今は目の前の「人」という存在にも写真を通して向かっている私を強く意識している。
写真があるからこそ、私が出会えたもの、愛おしさを感じた時間を他者へ提示することができる。写真にすること、それこそが私にとってこの世界への愛を表現できるただひとつの方法なのだ。」(「隣人愛」より)

2020年最後の展示。

「隣人愛」という言葉は聞いたことがある。でもなじみがない。
隣に住んでいる人を愛しましょう。自分の身近な人々への愛。他者への愛。・・・・
あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない。という聖書の言葉。
私を愛するってことすらもう人々はしていないのに、他者を愛することなんて出来ないんじゃないかな?
と、基本的には思っている。

「身近な人」という言葉にぴんときていないのかもしれない。
家族とごく親しい友人。これを身近な人ともいうのでしょうが、もう少しフランクでもよい気がする。

天草に来てから出会った人。もしかしたら日本全国同じなのかもしれないけど、
天草という場所は人と人の距離をいきなり縮める空気がある。
こんにちは、の次に、隣人愛って何だと思う?と話せるような雰囲気。
大切な人が増えた。思い出すだけで心元気になれるような存在の人が増えた。
これは身近な人なのかも。その人たちのことを想っている時間は愛なのかも。
しかしこの「愛」という言葉、この言葉って、日本語として適しているのでしょうか?
ちょっと考えてみる必要があります。

見知った人、初めて出会う人。たくさんの人の写真。
こちらを見て笑顔で写っているというのは最高の姿だと思う。

そして今回は本屋さんの誕生日もかねてみんなでごはんを食べた。
龍華園の出前を頼んでミシマ社のロゴマークのケーキを食べた。

そして最後にそれぞれの写真を持って錦戸さんに写真を撮ってもらった。
ああ幸せ。こんなに幸せでいいんだろうか。
大好きな人々が、大好きな場所をより身近にしてくれる。

※錦戸俊康さんのnote
写真展「隣人愛」を終えて

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「ご近所論」錦戸俊康写真展

「ご近所論」錦戸俊康写真展
2020年11月18日~11月25日

「同じ場所、同じ季節、同じ様な天気。毎年繰り返される同じような時間に飽き飽きし、また同じものを撮っていると思い込んでいた時期があった。だが、それは全くの別物で不変のものではないのだとある時に気づかされた。わざわざ遠くへ行かずともそこに暮らしている、ただそれだけでなにかを教えてくれる。この身近で平和なこの土地を、私はこれからも撮り続けるだろう。」(「ご近所論」より)

展示も回数を重ねてくると、次の展示のタイトルは何かを予想するようになります。絶対に当たらないと思いつつ、想像するときには必ず漢字二文字で考えます。「点滅」「当然」「図鑑」ときているのだから。そしたら「ご近所論」でした。かっこいい。

実家は選べないけど、独立して家を探すときには周辺環境を当然気にするものです。
便利さというだけじゃなく、好きなお店があったら、好きな道があったら、好きな景色があったら、なおよい。
住んでしまえばそれはすぐに日常になって、”近所”は視界に入らなくなる。
毎日見ているというほどにも見ていないのに、近所はつまらないものになっていく。
そしてそれが実家である場合には「自分で選んだわけではない」という気持ちが重なってますますつまらないものに見えてきます。
でもそれは見ていないから、つまらないのだろうな。
錦戸さんの写真を定期的に見る機会ができたことでそう思うようになりました。
地味かもしれないけれど、いつも我々は地味なものに大きく救われているのだと思います。

富山の山間の村で育った私、帰りたくなりました。

それにしても錦戸さんの展示のDMは毎回素敵です!

※錦戸俊康さんのnote
写真展「ご近所論」を終えて

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「日々の気配」錦戸俊康写真展

「日々の気配」錦戸俊康写真展
2020年10月21日~11月4日

天草に住む陶芸家・木ユウコ(しげゆうこ)さんの写真冊子の作成をもとに開催されることになった展示。
天草大陶磁器展に合わせ、通常より長期間の開催となりました。

木さんのご家族とはわたしたちも親交があり、そして錦戸さんとも親交があり、いつもの錦戸さんの作品展示とは距離感が異なるように感じました。いらっしゃるお客様がどのように感じられるかなと思っていたのですが、もともと木さんの作品が好きな方も、初めて知られる方も、木さんというひとりの女性の姿にとても興味を持たれていることが印象的でした。

「日々の気配」の期間中、花を飾りたくなりました。
それはスペシャルな行為ではないけれど、一日の味が変わるようなスパイスとなります。
写真たちは、彩ることの面白さを思い出させてくれました。

※錦戸俊康さんのnote
写真展「日々の気配」を終えて

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「90歳セツの新聞ちぎり絵」原画展

2020年10月8日〜10月19日

※以上撮影:佐伯慎亮

セツさんのちぎり絵を一番初めにどこで見かけたのか覚えていない。
「これはどうしても必要な本」と思った。手にしてみたらめらめらと元気がわいてきた。
ご主人が亡くなった翌年2019年元旦から始めた新聞ちぎり絵。
本屋と活版印刷所の屋根裏が開店して、
そういえば原画展が各地で予定されているんだよなと思って、天草のみなさんに見てほしいと思って・・・開催することが出来ました。

開催する前に自分でちぎり絵をやってみた。秋の味覚。

実際に原画がやってきて、わたしのちぎり絵、恥ずかしくなりました。
原画を見たとき、これ原画?と店主と話す。原画ってなんだっけ・・・
そんなおかしな質問を真面目にしてしまうくらい、額の中に飾られたそれは絵みたいだったから。
でもよくよく見ると、紙の凹凸がわかる。ちぎったあとの、紙の断面、ふわふわ、がわかる。いとおしくなる。セツさんのちぎり絵を知ったあとでは、素材の新聞やちらしさえも抱きしめたくなる。

原画を見るとやっぱりめらめらと元気が出てきた。
たくさんの方に見ていただきたい嬉しくなってほしいと思った。
結果、開店したばかりの、見つけにくい二階のお店に、想像以上にたくさんの方に来ていただき想像以上の嬉しさをいただきました。
本当にありがとうございました。

絵を見ながら、わあ!とかすごい!とばかり言ってしまう。
一緒に見てるのに、みて!みて!と言ってしまう。
語彙を奪われてしまう。
嬉しくてたまらない。
会期中、わたしは毎日朝な夕なに見られるという特権を預かっていたのだけど、とにかく見るたびに語彙は奪われたままだし、嬉しくてたまらない。

始めたばかりなのにこんなに素敵、とか、90歳を過ぎてこんなに細かくとか、いろいろ驚くポイントはある。
けれど、セツさんのちぎり絵を見ていてこんなに嬉しくなるのは、それが「超絶技法」にとどまらない、ご本人の嬉しさおかしみを感じるからではないかなと思う。
とにかくよく見ているのだ。愛情を持って。
なんでこんなに細かく表せるんだろう。なんでこんなに素材そのものを表せるんだろう。しかもそこにユーモアさえプラスされて。
それは、日々を懸命に誠実に生きてこられたからで、
つまり懸命に誠実に生きるということは、
よく見る、ということなんじゃないのか。

見ているつもりでも「よく見ている」とは限らないし
それを表せるかもまたわからないけれど
日々を生きること見るということを大事にしたいと心から思ったんです。

その気持ちは、セツさんのちぎり絵を前に顔をぱっと明るくさせる
お客様からも教えていただいたことでした。

里山社さんの本はどれもこれも本当に素敵です!

夢のあと。
2019年の10月17日にできた作品があり、
2020年の10月17日にその作品が天草にあったことは、
わたしにとってプレゼントでした。

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